木村拓也の凄さが分かる名言・語録集!ユーティリティープレーヤーの伝説エピソードから努力論まで
名前を覚えてもらえるというのは、野球選手に限らず、芸能人はもちろん、会社の営業マンでもありがたいことです。たまたま有名なアイドルと同じ名前(漢字は違いますが)で、野球ファン以外にも知られ、ノック中にグラウンドで倒れて急逝した時には、多くの人が涙した選手が木村拓也です。
内外野を守れ、そして捕手も出来るユーティリティープレーヤーと活躍した木村。プロ野球界では公式戦で全ポジションを守った選手が2人います。高橋博士が消化試合のファンサービスとして1試合で全ポジションを守りましたが、ある意味でショーであり、ユーティリティーと呼ぶことはできません。また五十嵐章人も全ポジションで出場していますが、投手としてはやはりファンサービスとして出場しました。木村は投手としての出場はありませんが、それ以外すべてのポジションを守っています。
まさに究極のユーティリティープレーヤーですが、本人はレギュラー獲得のために奮闘した結果であり、便利なユーティリティープレーヤーとされることを潔しとはしませんでした。
今回は抜群のユーティリティープレーヤーでありながらも、レギュラーにこだわり続けた木村拓也の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから努力論にまで迫ります。
木村拓也のプロフィール詳細
まずは木村拓也の経歴を追ってみます。
1972年4月15日生まれ、宮崎県宮崎郡田野町(現宮崎市)出身。宮崎南高校で甲子園にも出場。高校通算35本塁打の強打者でしたが、ドラフト指名はなく、1992年に日本ハム・ファイターズにドラフト外で入団します。登録枠の関係でわずか2ヶ月後に任意引退選手とされるものの、後に再契約。
出場機会を求めて、捕手から外野手に転向しますが、トレードにより1995年に広島東洋カープに移籍。内野守備やスイッチヒッターなどに取り組み、徐々に出場機会を増やして行きます。
2000年、規定打席に到達し、レギュラーを獲得。2004年にはアトランタオリンピック日本代表に選出されますが、故障もあり、控えに回ることが増えます。出場機会を求めて2006年にはトレードを志願し、6月に読売ジャイアンツへ移籍。
カープよりも選手層の厚いジャイアンツだけに、出場機会が危ぶまれましたが、守備力だけでなく、代打としても評価され、2007年には先発メンバーにも名を連ねるようになります。2008年9月には古巣のカープを相手に通算1000本安打を記録。2009年シーズンには見事日本一に貢献しますが、後進の育成を引き受け、コーチ就任と共に引退。
通算18年の現役生活で、1049安打、53本塁打、103盗塁、打率.262の成績を残します。
2010年4月2日、広島にて試合前のシートノック中、急に意識を失い、くも膜下出血と診断され、4月7日に惜しまれながらもわずか37歳の若さで逝去しました。
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【名言語録その1】
「こうやるしか思いつかなかった」
高校時代に35本の本塁打を放ち、どうしてドラフトにかからなかったのかと不信感がいっぱいのまま、ドラフト外でファイターズに入団しますが、いざプロの中に入るとあまりのレベルの違いに唖然としたそうです。
とにかくプロで生き残るために、やれと言われればどこでも守り、スイッチヒッターにも取り組みました。器用だったからユーティリティープレーヤーになったのではなく、まさに「こうやるしか思いつかなかった」のです。
なのでカープ時代に山本浩二監督から「キムタクはスーパーサブだ」と言われても、まったく嬉しくはなく、むしろ頭に来たそうです。プロである以上、当然レギュラーを狙っているわけで、初めからサブ扱いされるのが嫌だったのです。
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2006年のトレードの際にも、諦めない木村はカープから「そろそろコーチに」ということを言われて、「まだ自分にはやれる自信がある。出番のあるところ、使ってくれるところに出してください」と自ら志願しました。
その結果、むしろ出番が少なそうなジャイアンツへの移籍となり、最初はへこんだそうですが、それがまたひとつの転機となりました。
【名言語録その2】
「失敗したら仕方ないではなく、まず期待に応えるプレーをしなきやいけないんだと気づきました」
ジャイアンツに移籍して、野球観が変わったという木村。カープではミスをしても「やってしまったことは仕方ない」と割り切って、次の機会に挽回すればいいと考えていたのが、人気や期待度の高いジャイアンツでは、「ワンプレーの重みを考える」ようになったそうです。
木村がカープに在籍した期間は長期低迷期であり、常に優勝を期待されるジャイアンツとでは選手の意識にも差があっただろうと思います。
プレーの重みを知ることで、ベテランの域でも更に成長する木村に対して、原辰徳監督は「タクヤのことを誤解していた」と話しました。ただ器用なユーティリティープレーヤーだろうと思っていたら、違うのようなのでなるべく二塁手に固定することで、晩年になってもうひと花咲かせることができました。
「本当に充実した4年間でした」
引退セレモニーの際、笑顔で語った背景には、チームが変わっても成長出来た自分への満足感が感じられます。
【名言語録その3】
「一番得意だった事がうまくいかない。その時にあきらめるのではなく、自分の話を思い出してほしい。投げ出す前に、自分自身を知って可能性を探るのも必要ではないか」
NPB主催の新人研修の際に、講師として木村が話した言葉です。
「自分は必死にやって、しぶとく生き残るだけです」
高校時代の高い鼻を折られてプロ入りし、何とか食らいついて不本意ながらもユーティリティープレーヤーとして認められて、そこから更にレギュラーも獲得した木村ならではの話です。
上原浩治が「雑草魂」という言葉を座右の銘にしているのに対し、木村は「雑草ちゃうやん。いっぱい年俸もらってから」と笑いにし、それなら自分は「岩にへばりついている苔みたいなもん」だと語っています。
そんな苔としてへばりついてきた選手が、コーチとして活躍する姿をほとんど見られぬまま亡くなったのは残念です。きっと良いコーチになっただろうと思います。
しかし木村の名前は忘れられてはいません。2019年に東北楽天ゴールデンイーグルスの銀次が、捕手登録の選手がベンチにいなくなり、急遽マスクをかぶりました。
その日は偶然にも4月7日、木村の命日であり、多くの野球ファンが同じような状況でマスクをかぶった木村を思い出し、ネットにはその名前がたくさん書きこまれました。
名言からの学び
・結果は経過の先にあるものであり、決して予測はできない。
・年齢に関係なく環境が人を大きく変えることもある。
・自分で得意だと思っているものが、その人にとって一番いいものとは限らない。
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